2008年5月5日(月) 曇り、ちょい雨

今日は美術館めぐりをした。
久しぶりの美術館に興奮したね〜。
ん〜で国立近代美術館の秋野不矩展がもう衝撃だった。


「…私の書きたいそのものが、インドにちゃんとあった。」
その言葉を聞き、彼女の『ガンジス河』という作品を観た瞬間、

自分の中で何かが動き出した。
頭のなかにある開きそうで開かない扉に
鍵が差し込まれ、その鍵が回されて
その扉を開かせた。そんな感じだった。

自分は美術館に行くのが好きだったが、それはなぜか?
画はなぜ絵を描き、人々はなぜ鑑賞するのか?
それがずーっと疑問だった。

画家が「書きたいもの」ってなんなのだろうか?
それを「観たい」自分たちはなんなのか?

人々は別の人々の書いた絵画を愛でる。
その別の人々が愛でたのは絵画ではなくそこにある自然。
そう秋野不矩が愛で、表現したのはインドの自然。

「作品で画家(すべての芸術家)はその精神を表している」としばしば言われる。
しかし、対象を通じて精神を表現しているのではなく、
芸術家の精神を通じて対象(自然)を表現しているとすれば。

人間が愛でているのは芸術家の精神というフィルターを通した自然ということにはならないか?
ならば

「芸術は人間が自然を理解するためのチャンネルなんじゃないか?」


しかし芸術家はそれを表現し、作品として非芸術家に伝達するだけであるならば
写真家も芸術家に包含されるし、表現方法は絵画である必然性はない。
そう、写真で十分。。。

いや、芸術家が一人ではなく、星の数ほどいるじゃないか。
そこにヒントがあるのでは。
十人いればまさしく十人十色の表現方法によって画像が相違なる。
鑑賞側の人間にも
JAZZが好きな人間もいれば、クラシックが好きな人間もいるように
全員の表現を理解しうるわけではなく、
バイオリズムのシンクロしうる表現方法は十人十色である。
観たままの写真に感動しない人間だって存在しうる。
芸術家の存在意義はそこにある。

自然に底流する理解すべき真理とも言うべきコアを
特定の芸術家の精神をバイパスすることで特定の人間にとって感じやすくさせているのではないだろうか?

ここまでの空想が真実ならば、
人間はあらゆる芸術作品を通じて自然を理解する必然性があるということにならないか?
芸術作品を鑑賞したいという欲望は三大欲求のいずれとも結びつかないように思われる。
つまり芸術家というポジションは人間活動にとって必要不可欠なのではないだろうか?

少し御幣があるかもしれない。
人間は自然を理解する欲求があるのではない。
人間は自然を理解する責任があるのでも必要があるのでもない。

「自然を理解するのが人間なのではないだろうか?」
それが適切な表現かもしれない。


自然とは何も人間から観た外的な自然だけではないと思う。
心の内にある、意識しない部分も自然だろう。(人類共通の記憶)
こういうのもユング心理学に敬意を寄せているからかもしれないが、
ある種の抽象画のように心情を表現した絵画もある。

ユングの言う「世界」もここで使った「自然」という言葉にはあまり差異の内容に思われる。

ということは、人間の存在意義は…
と言いたいところだが今日はこの辺で。

別窓 | 未分類 | コメント:0 | トラックバック:0
∧top | under∨
| お〜た日誌 | 桂キャンパス、工学部の聖地>>

この記事のコメント

∧top | under∨

コメントの投稿

 

管理者だけに閲覧
 

この記事のトラックバック

∧top | under∨
| お〜た日誌 |